監督、役者ともに大ファン
ワタシ的には超お待ちかねだったキム・ギドク監督とオダギリジョーのコラボレーション作品『悲夢』がいよいよ今月日本公開。先日、テンション満々の気分で、渋谷にて鑑賞。ギドク作品に関してはいつものように仕事の合間、ブログに割くささっとした短い時間では書ききれないと思うのだが、とりあえず。今回はとくに「ひとりごと」のようなだらだらーっとした感想で恐縮。
ぶっちゃけ正直にいうと、ワタシの中ではほぼすべて見ているギドク作品の中では「ちょっと調合間違って作っちゃいましたかね?」系のビミョーな味わいだったかもしれない、初見の印象ですけれど
無論、あまりにこちらの期待が大きすぎたのかも。パンフレットには「キム・ギドクの到達点」という言葉もあったけど、それは宣伝文句だろーとしても言いすぎ。見終えた後「圧倒されて」なにも言えなくなるようなやつとか、味の「完成度」で見た場合はこの作品以上のもの、いっぱいあるしね。なので、これまでにギドク作品を知らず、単なるギリジョーファンやその他の観点からこの映画を見た人には「ギドク、こんなもんじゃないですから」と言いたくなるかも~。このひと皿で判断しないでー、的な
とはいえ、敬愛する天才先鋭シェフのギドクである。どこかにミスを感じる「一品」でも、相変わらず「すごさ」は随所に光る。まずはいつも「ココ」でまずやられる、「設定」の奇抜さ斬新さはいつもながら。今回は、ある見知らぬ男女(男A=オダギリジョー氏 女A=イ・ナヨンさん)がいて、男Aが夢でみた出来事を、女Aが現実の世界で実体験してしまう、という設定になっている。
しかも女Aは、その最中の出来事をまったく覚えておらずその体験中は夢遊病状態。男Aは自分を捨てた女Bを忘れられず、夢の中でその女Bと激しく逢う。女Aは逆に大嫌いな男Bを捨てた設定。(この男B女Bはまた別の俳優が演じている。)しかし、この男Bは実は男Aの化身でもあり、女Bは女Aの化身でもあるため、女Aは、男Aが女Bに「逢う夢」を実体験することになってますんで、大嫌いな男Bに実際自らの意識のないところで逢いに行ってしまうのである。
ふー、複雑でしょ、文字で読むと
映像でみるとそーでもないのだけれど、やっぱり、ちょっと説明しないと物語がすすみづらい。だからこうした「ありえない摩訶不思議な設定」をひとまず主人公の男女Aたち自身が認識する時間、観客にもそれを理解させるために「説明的」なシーンが、前半かなり描かれる。
この「説明」を受けている部分が、正直ワタシ的には彼の作品には珍しく「説明的」で、うむむだったのかなぁ。ギドク映画って、セリフが「ない」に等しいところがまたすごいんだけど、この作品、この「状況説明」の部分が今回かなり饒舌だったんですよねー、設定が複雑なんで仕方ないけど
ただ、いつもは「設定」がスンゲーところにいってても、説明なくそれを説明してしまってるんだけれど、今回はそこが違った。
しかもその説明責任は、ほぼギリジョーの「日本語」セリフが担ってて。で、この前半のギリジョーが話す「日本語」のテンションが、このギドク作品のテンションにはちと合わない気がしたのだ。『時効警察』のときのようなコミカル系の彼の引き出しがちょっと開いてるようなといいますか。フシギな感覚のトーンを出そうとしてなのかすこし演技が面白くなっちゃっててね。前半もうすこし『ゆれる』的なシリアスバージョンのギリジョーでもよかったように思った。(後半は結構そうなってたんですけどね。)だって、もともとギドクの作品の設定って「ありえない」ような話なんだから、それを主人公がフツーに受け入れていてないと違和感が出るのではないかな。そのあたり日本語セリフの細かいニュアンスまで演出が行き届かなかったのか?それともギリジョーが「韓国流ORスピーディに撮るギドクシステム」に乗り切れていなかったのか?
言い添えると、この映画のもうひとつのすごい設定はギリジョーは「日本語」で、ほかのキャストはすべては「韓国語」でセリフを発し、それでなにごともないように物語が進行していく、っていうとこなんすけど、もうそれで十分フシギなの。だからこの物語前半のギリジョー氏の芝居プランが少し違ってたら、印象がかなり違ったかもしんない。韓国の人とか外国人ならわかんないかも知れないビミョーなとこなんだけど。そこで、ワタシ的にはひと味、ふた味狂った気がする。
ワタシとしてはこのギドク作品でギリジョー氏が、どのように「セリフ」を伝えるのか、何語で話すのかも気になっていて
。
ギドクの前作『ブレス』では中国系のイケメン俳優チャン・チェンを使い、彼には「セリフのない役」を与えて、それでそのまま、ものすごい存在感で、チャン氏を魅せていたから。今回はそのままギリジョーには「日本語をフツーに話させる」というところも監督的なポイントだったのだろうけれど、その「ポイント」が良いほうに作用していたのかどうかはナゾ。ワタシは後半になってから描かれる「セリフ」のすくないシーンに、やはりギドク的な「美しさ」を多く感じたし。ギリジョー氏も、イ・ナヨン氏も華のあるルックス。どきどきするほど「絵」がキレイなシーンも数多くありそこは心から満足してしまう。これだからギドクはやめられないのだが。
また、ギドクのいつもの柱、震えがくるほどの「究極の愛」というテーマが、希薄に感じられたところも味の狂いにつながっている気がする
結局もって、主人公の男Aと女Aが本当に愛し合うことになればこの「夢と現実の交錯事象」は終わるという設定になっているのだが、物語終盤に「本当に愛し合う」ことになるふたりの気持ちの変化や推移が、いつものように「考えられないほど印象的に」、あるいは「重たいほどまったりと」は描かれず、どーもくぐもって「もどかしく」終わってしまったようにも感じる。イ・ナヨン氏の演じる女Aのキャラが「立ってない」というのもその原因か。
また物語を通じて、たとえば男Aが「眠らない」(夢を見ずにすむから)ということで、女Aに迷惑をかけないようにするなど「睡眠欲」と「人間」の戦い(笑)みたいなところも描かれるのであるが、この「睡眠欲」という人間の「大欲」、本能が物語にひとつ組み込まれたことによってふたりの「愛」を描くにはまたものすごくハードルが上がってしまったのかもしれない。
いつも短期間で作品を撮ることで知られるギドク監督。この作品もなんと12日間で撮られたというから、それはまたこれだけのものをまた12日間でという驚きもあるんですが。エンディングのシーンをはじめいくつかのシーンにギリジョーとギドクのコラポの「妙味」(味がバチッと決まっている!)を感じただけに、全体を通したときの「なんだか・・・どうも」と
舌に残った「物足りなさ」が残念。編集なのか、撮影なのか、もう少し時間をかけたらもっと味の「精度」が上がった気もする。アイデア自体はいつものように面白かっただけにね。
逆に言えば大胆な味の冒険をしてもディティールのバランスが絶妙だからこそ、ほかのシェフには出せない美味を出してしまえる監督だともいえるので、「ぎりぎり」のところで少しの味が狂うと、その皿の印象は大きく変わってしまうものなのかもしれない。スピードが速い調理法だしね。天才の作品は、食べる側の舌も五感もいつも以上に敏感にならざるを得ない。しかし、身構えたところで「食後感」はかわるわけでなく、やはり舌は正直。どんなシェフのまえにおいても平等。
ミニシアター系で、全国公開中。今回はネタバレにならぬよう書きつつ、見ないとわからないですけどな書き方だとこーなる的で失礼
とゆーか、ギドクの映画を語るのってホントに「難儀」なので、彼の作品、ご興味のあるかたはぜひいろいろ見てください
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